4/19'05
5/27'05加筆
今の仕事を選んだわけ

 ピアノバドミントン,あるいは,大学院生時代とこれまでを振り返ったので,何で今の仕事(構造動力学を用いた地震防災)をするようになったかも振り返っておきたくなりました.過去を振り返っても幸せにはなれないのですが,振り返りたくなったので振り返ります(^^;.まあ一種の「自己満足」ですね(もちろん「やりたいこと探し」で苦しんでいる人が読んでくれて参考になるところがあれば望外の喜びです).でも「満足」は幸せの重要なキーワードだと思います.要は,満足することが幸せに繋がる,しかし,満足することによっては得られるものはない,従って,「幸せは目指すものではないし,目指すべきものでもない」ということですね.ですから,振り返っても幸せには多分なれませんが,振り返りたいので振り返るという「満足感」を得ることによってささやかな幸福感は得られるかもしれません.

 そう言えば,この間イチローがこんなこと言っていました.イチローはこれまで今の自分に満足していない,と言い続けていたと思います.日本で7年連続首位打者を取って,メジャーに行って首位打者を取ってもなお「次の目標」を掲げ続けて来られたのも今の自分に満足しない,ということの繰り返しだったと思うのですが,この間は,満足しない満足しないと言っても,ある程度満足することも必要なんじゃないか,と言っていました.やはり,ある程度の満足感(満足するかどうかは本人次第)がなければ幸福感は得られないでしょう.イチローだって幸せになりたいんですね(^^;.

 さて,私が今の仕事をするようになった経緯ですが,おそらく小学校の低学年頃まで遡ると思います.小学校は普通の公立の福岡市立七隈小学校というところでした(先日,福岡県西方沖地震の被害調査でたまたま前を通りましたが,全く当時の面影がなく,少しがっかりしました).福岡市に来る前は,同じ福岡県の大牟田市というところに住んでいて(ていうかそこで生まれた),小学校に入るとき福岡教育大付属という久留米にある学校も受けさせられたのですが(今でいうお受験?(^^;でしょうか),あっさり落ちました.まあ,まだ子供ですし,試験を無理矢理受けさせられても(実際,嫌で嫌でしょうがなかった)そんなに必死になるはずもありません.でもその時,それまで見たこともなかった母親の涙を見て,とてもショックだったのを憶えています.大牟田から福岡へは小学校2年の4月に引っ越してきました.

 小学校のときの成績はまあそんなに悪くはなかったと思いますが,勉強はそんなに好きでもありませんでした(^^;.まあ母親に小学生の仕事は勉強すること,とか言われて勉強していたような感じでしょうか.少なくともクラスで1番なんてことはなかったです(^^;.ただ,学校の勉強以外にいろんなこと,例えば,昆虫採集とか,火星が大接近したときは天文学とかにのめり込むことはありました.その中で多分私が広く「科学」に興味をもったのは,「理科学習漫画」(だったかな?正確な名称は忘れた)でした.おそらく100回くらいは読んだ(見た)と思います.その頃から何となく「科学者」になりたいと思うようになったと思います.

 対照的に「理科学習漫画」と同じ?シリーズに「日本の歴史」というのも買い与えられたのですが,こちらはほとんど興味を示しませんでした.理系か文系かというと理系というのは,この時点でかなり確信をもったと思います.父親が大学教授だったこともあり,自分も科学の分野で大学の先生になりたいと思うようになったと思います.父親が大学教授で,なんで自分も大学の先生になりたいと思ったか,というと,父が仕事をしている姿がとても楽しそうだったからです.あんなに楽しい(楽しそうに見える)仕事なら私も同じ職業に就きたいと思ったわけです.ただ,実際に大学の先生になって,あの時の父と同じように楽しく仕事ができているか,と言われると,ちょっと自信がないです(T_T).父は文系(近代文学)で私は理系という違いも大きいと思います.理系,特に工学系は,社会との繋がりが強く,いろいろと大変なことが多いので(例えば,ここ(^^;),楽しいとばかり言ってられないところもあります(T_T).まあその分注目度も高いとは言えますが.

 小学生時代は,まあ周りの平均的?な生徒よりは勉強していたとは思いますが(母親が小学校の先生をしていてとても教育熱心だったので(^^;),勉強よりは,学校から帰ってきて近所の米田君,千竃君,小追君とかと裏の空き地で野球をやってような記憶の方が大きいですね(^^;.小学校の卒業文集には,将来なりたいものに大学教授か建築家と書いたと思います(生意気な小学生ですねー(^^;).建築家と書いたのは父親にガウディーなどを見せられて大分洗脳された?からだと思いますが,後になって奇しくも大学は,建築学科に進学することになります.

 中学校は,地元の公立ではなく,西南学院中学校という私立中学に行きました(福岡教育大付属というのは学科試験は受かりましたが,抽選で落ちました(T_T)).そして,森田修学館という進学塾にも週3回くらい(だったかな?)行っていました.森田修学館というのは,当時福岡市内の各中学のトップレベルの生徒がほとんど集まっているような大変なところで,実際,ラ・サールや久留米付設(ライブドアの堀江氏やソフトバンクの孫氏の出身校として最近特に有名になりましたね(^^;)にそれぞれ30人とか50人とか大量の合格者を出していました.クラスも能力別にA, B, C, Dと分かれていてとてもシビアなところでした.

 中学時代は勉強したと思います.森田修学館のクラスも入学時にはBクラスでしたが,半年後Aクラスに上がり(確か,半年毎に成績で入れ替えが行われる.シビアですねー(^^;),その後は,卒業までずっとAクラスで一番いいときは,トップ近くまで行きました.進路志望もラ・サールでした.でもそういう雰囲気にだんだんついていけなくなってきて,最後の方はほとんど落ちこぼれて塾にも行かなくなってしまいました.成績的にもついていけなくなりましたが,精神的にしんどくなってしまったような感じだったと思います.

 転校してきてたまたま隣の席になったS井君というのがものすごくできた(というより,最初は私の方が成績がよかったが,どんどん伸びてあっという間に私を追い抜いていった)というのもかなりショックだったと思います.彼は人間的にもすごくいい奴で性格もとても素直で,そういう意味でも私はかなりコンプレックスを感じていたと思います.彼はその後,ラ・サールへ行って,確か,河合塾か駿台の東大模試で一度会ったと思いますが,その時の模試も全国で何番という感じで,大学も東大の理IIIにストレートであっさり受かったと思います.とても私がかなうようなレベルではなかったわけです(^^;(もちろん勉強ができるできないという範囲での話です).普通に行けば東大医学部に進学したはずですが,その後どうしているかはわかりません.

 S井君がどうだったかはわかりませんが(というか彼は違うと思いますが),前から思っているのですが,高校時代に抜群に成績がいいと,物理や数学に興味があってもそれだけの理由で最難関の東大の理IIIに行ってしまう(理Iなんか行くのが勿体ない?),という話をよく聞きますが(もちろんそんな人ばかりではないでしょうが),なんとかならないものでしょうか?理IIIと同じ100人くらいの定員の理数系の超エリートコース,例えば理科IV類(仮称(^^;)みたいのを作るっていうのはどうかとずっと前から思っているのですが...数学オリンピックで好成績を残した人の受け皿になるかもしれないとも思うのですが...医者って特別な職業だと思っていて(これについてはまた別に書きたいと思っています),医者になりたいから勉強するというのはよくわかりますが,勉強ができるから医者になるというのはかなり問題だと思います(ここに少し書いています).

 医学部で思い出しましたが,その森田修学館というところは,福岡市内の各中学のトップレベルばかりが集まったという,とんでもないところで,ほとんどが第一志望ラ・サール,第二志望久留米付設という感じでしたが,大学となると,ほとんどが医学部志望,特に,九大医学部志望だったと思います.医者の息子が多かった,というのもあるでしょうが,東大志望なんてことは恥ずかしくて言えないようなみょーな雰囲気があり,そんな金にならないことしてどうすんの?みたいな感じでそういうところもついていけなくなったところかもしれません.

 そんな感じで中学時代はひたすら勉強して(そして,落ちこぼれて(^^;),科学に興味をもつとかそんな雰囲気では全くなかったです.科学に近い?と思われる科目である数学や理科も特におもしろいと思ったことはありませんでしたし,好きでもありませんでした(問題ですねー).対照的に興味をもったのは英語だったと思います.英語はいつもトップレベルでした.1年生のときにもう3年生の参考書で勉強とかしていて,中学の授業中に見つかってよく先生に怒られました.中学でも森田でもいっしょだった嶋津君というのといつも熾烈な?トップ争いをしていて,でもとても仲が良くてよくいっしょに勉強していました.でも私の場合って,なんか新しいことが始まると(英語は中学から勉強しますから)興味を持ってだーっと勉強して,あっという間にトップレベルになるのですが,しばらくすると飽きて(^^;みんなに追い越される,というパターンのような気がします(T_T).

 ただ,ここでは余計な話題ですが(^^;,ピアノはかなり前進しました.中学2年くらいまでは,硲先生というピアノの先生についていて,なんと家庭教師のように家まで毎週来てくれていて(でないととても続かなかったと思います),とても優しい先生で,そのおかげでどんどん上達して,音大とか行くのなら,もっと上の先生を紹介するみたいな打診が両親にあったようで,でも両親はそれをあっさり断り(私に何の相談もなくです(T_T),なんせ,私が小学3年生くらいのとき,ピアニストになりたいと父親に言ったら,「馬鹿者,モーツァルトは6才で作曲したんだ」と一喝されたような感じですから(^^;.同じような感じで上記の天文学にのめり込んだときも「天文で飯が食えるか」と却下されました(T_T)),ある日突然,硲先生はいらっしゃらなくなってしまいました.

 それは,とても残念なことだったのですが,それまで先生に与えられていた曲を練習していた状況は一変しました.自分でやるのですから,自分が弾きたい曲が弾けるわけです(^^).それで,ケンプのベートーヴェンピアノソナタ全集やルビンシュタインのショパン全集などを皮切りに,クラシックのピアノ曲を次々と開拓していきました.毎月の小遣いで買うLPを当時出たばかりのレコードの総カタログで選んで,これもできたばかりの西新のヤマハで買うのが唯一?の楽しみでした.そして,それまでレッスンでやっていたピアノ曲以外にものすごい数の素晴らしいピアノ曲が無数にあることに感動したものです.古典,ロマン,そして,必然的に近現代ものへとその触手は伸びていきます.中学時代は,学校は楽しく,前述の塾も途中まではとても楽しかったのですが,だんだんしんどくなってきて,それに学校に塾にと,とても多忙で(^^;なかなか心に余裕がなかったのですが,そんな中でも「どんなに苦しくても音楽があれば生きていける!」と心底思ったものです(当時は).

 高校受験は,ラ・サールや久留米付設は結局,受けませんでした.落ちこぼれたというのもありますが,両親がものすごく反対しました.多分,そういう進学校に対する偏見みたいなものがあったのだと思います.東大に行くなら普通の公立高校から行け,と森田みたいなところに行かせておきながら(^^;,勝手なことを言っていたもんだと思います.でもそれは全くの偏見だということを東大に入って自分の目で確認することになります.まあ,私が知る範囲での話ですが,全国のいわゆる有名進学校の中で一番まともというか,人間的におもしろい奴が一番多いのはラ・サールだと私は思います.もし私の子供がラ・サールに行きたい,と言ったら喜んで行かせます.

 受験したのは,地元の公立の修猷館と父親が東京に単身赴任していたので,半分一か八かで東京の進学校も1つだけ受けました(が,あっさり落ちました(T_T)).落ちたのもショックでしたが,帰るとき新幹線の中から見た父の背中がとてもさびしそうで,子供心にとても心を痛めたのを憶えています(父はその2年後に亡くなってしまうことになります).修猷館にはなんとか合格することができました.成績的に大分余裕があったということもありますが,いわゆる滑り止めは1つも受けていなかったわけで,随分,危ないことをしたもんだなー(へたすりゃ中学浪人だった)と思います.

 前から不思議に思っているのですが,福岡市のようなとても教育熱心なところにどうして私立の進学校が育たないのでしょうか?まあ修猷館がそれなりに?優秀というのもあるでしょうが(ちなみに修猷館高校は,小林よしのりの「東大一直線」の優秀館高校(^^;のモデル?となったと言った方が有名?),前述のようにトップレベルの男の子はほとんどラ・サールか久留米付設に流出してしまいます.ですから,修猷館の上位はほとんど女の子によって占められていました(私の頃は.今でも?).

 高校時代は楽しかったですねー(途中までは).中学が男子校だったので,女の子がいるというだけでも楽しかったです(^^).特に2年の時は,結構みんな仲が良くて,ほんと楽しかったです.春の文化祭で劇をやったのですが,その時の仲間でいつもなんかして遊んでいたと思います.科学に関係した科目「物理」が始まったのも2年のときでした.最初は力学からやるんですけど,ニュートンの法則やエネルギー保存の法則など自然現象を数式で表現できる,ということに感動したと思います.そして,将来は物理学者になるんだ,と決心します.試験も全て満点だったと思います.しかし,力学が終わり,電磁気や波動などが始まると大分雲行きが怪しくなってきます.またもや,最初は興味をもってだーっと勉強するが,しばらくすると飽きるというパターンですね.でも力学に対する興味はずっともっていて,そういうことをやりたいと思っていました.

 しかし,高校2年の冬,年が明けた1月3日に父が亡くなります.具合はずっと悪くて入退院を繰り返しているような状態でしたが,どういうわけか亡くなるとは寸前まで全く考えていなかったので,ものすごいショックを受けてその後,1年くらいはやる気のようなものを失ってしまって,勉強もあまりしなくなったと思います.でも父の葬式の時クラスメートがたくさん来てくれて,とても慰められたのを憶えています.あまりにも茫然としていて,当時,仲が良かった早田や山本が家まで来てくれて,これからどうする?みたいな話をしたときに,勉強してなくて3学期の初日にある実力試験が心配みたいな,とてもとんちんかんなことを言ってしまったのを今でもよく憶えています.

 あと,とても不思議だったのは,父が亡くなるまでとても苦手だった国語が父が亡くなった直後から突如大得意になりました.父が私に乗り移った?(^^;東大には理系にも国語の試験があるので(理系なのになんと初日に国語と数学,2日目に英語と理科2科目とめちゃめちゃハードでした.今でもそうかな?),かなり大きかったです.

 そんな感じで,高校3年の時は受験なので勉強しなくては,と思いつつもどうしてもやる気にならない,みたいな感じで成績もどんどん落ちていったと思います.物理学者になるのが目標なので,志望は東大の理Iでしたが,とても合格できるような成績ではありませんでした.修猷館は確かにまあ地元では有名進学校なんですが,先生も結構みんな豪傑というか「高校時代は勉強以外にやることあるだろ.勉強なんか浪人してすりゃいいんだよ」みたいなことを言われる先生もいました(^^;.実際,「修猷学館」という専属?の予備校まであり(去年,私の研究室に来てくれた同じ高校出身の田中君によるともうなくなったそうですが),男子の8割が浪人していました.まあ公立高校にはありがちではありますが.そして,私も予定通り浪人(^^;します.ただ,試験は意外とよくできて,もう少し?という感じだったので落ちて当然と思っていたことにとても後悔したことを憶えています.

 物理学者になりたいのに,どういうわけかノーベル賞受賞者を数多く輩出している(当時は,理系のノーベル賞受賞者は,湯川秀樹,朝永振一郎,江崎玲於奈,福井謙一という感じで4人中3人が京大出身者でした)京大理学部受験はほとんど考えませんでした.福岡という土地柄東京志向が非常に強いというのもあります.でも全く考えないことはありませんでした.当時は,共通一次(今のセンター試験)と2次試験で合否が決まるのですが,京大は共通1次の比率が高く(対照的に東大はほとんど2次試験で決まり,共通1次は実質足切のみという感じだった),現役の時はかなり弱気?で,共通1次がよければ京大でもいいやみたい(失礼ですねー(^^;)なことは考えました(^^;.でも浪人して共通1次を9割5分くらいとったときは,友達に東大受けると言ったら,九大医学部なら確実に受かるのにあほな奴だ,みたいにめちゃめちゃばかにされました(^^;.

 東大を志望した大きな理由の1つは,まあ「東大」ということもあるんですけど(^^;,理Iという「大まかに理工系」という志望の仕方ができた,というのも大きかったと思います.そして,後述するように実際に入学後そのシステムに救われることになります.物理学者になりたいとは言え,どこかでなんとなくひょっとしたら違うんじゃないか,みたいなことを薄々感じていたのかもしれません.高校時代ブルーバックスのような本は沢山読んでいましたが,これだ!という感触までは得られなかったと思います.そしてその予感は入学後的中することになります.高校時代に読んだその手の本で一番印象に残っているのは「大数学者」という新潮選書で,衝撃的だったのは二十歳で決闘して死んだガロアでした.二十歳で亡くなったのに大数学者かよ!その時点で数学者になるのは完全に諦めたと思います(^^;.

 高校時代のことで一番後悔しているのは,部活のブラスバンドを途中でやめてしまったことですね.練習はかなり遅くまであって,疲れて帰ってきて寝ている私を見て父が音楽をやるのはいいが,ピアノかプラスかどっちかにしろ,と言われ,苦渋の選択を迫られて,ピアノを選んでしまいました.当時のブラスの部長の上級生にもよく反発していて,喧嘩してやめました(^^;(もちろん私がわがままだったからですが(^^;).ただ,その後文化祭などで同級生が呼び戻してくれて何回か復帰しましたが,3年の最後まで全うすることはありませんでした.でも,同級生がみんないい奴で卒業後声をかけてくれて,東京にいるメンバーで(ほとんど東京にいる?)今でも時々集まって飲んでいます.今,簡易振動実験でいっしょに仕事をしている建研の福山君は,その時からの友人です.

 浪人後,無事東大理Iに合格し,いよいよ物理学者になる,という夢を実現させる段階に入ってきます.一番最初に起こした行動は,最先端の物理学である素粒子に関するゼミを田無の宇宙線研究所まで受けに行ったことでした.そして,ものすごいショックを受けることになります.私がやりたいと思っていたニュートン力学なんてものはもう過去の遺物で(そりゃそうだ(^^;),素粒子などのばりばりの現代物理は私の予想していたものとはかけ離れたものでした.まあちょっと調べればわかることなんですが(^^;,例えば,ノーベル賞をもらわれた小柴先生の研究なんか見ても,神岡に巨大な穴掘って(^^;宇宙線を観測するとか,サイクロトロンみたいな巨大な実験装置を使ってばりばり実験するみたいな感じで,なんか理論物理という私のイメージとは程遠いものでした.ゼミが終わって帰るとき,外はもう暗くなっていて,西武線の電車に乗って駒場に帰るまで,これからどうしようと途方に暮れていたのを憶えています.

 その後,駒場時代(大学1,2年)は,大学に受かったということと,物理学者になりたい,という今までもっていた目標を一度に失ってしまって,とても苦しく暗かったと思います.ただ,運動会(いわゆる体育会のこと)のバドミントン部に入ったことと,東大ピアノの会に入ったことで,エネルギーはそちらに向かうことになります.特にバドミントン部は,高校時代ブラスを途中でやめてしまったという苦い経験から何が何でも最後まで続けようと思っていました.ピアノの方も東大ピアノの会のものすごい(^^;人達と巡り会って,ピアノに関してはとても充実した大学時代を過ごせたと思います(詳しくはこちら(^^;)

 しかし,肝心の本業の方が方向性が見つからずとても苦しかったです.東大は1,2年の成績で進学先が決まる(いわゆる進振りですね)ので,遊んでばかりもいられません.当時はほとんど一発勝負のばくちでしたが,この間,東大バドミントン部の学生にきいたら,今はチャンスが2回あるそうで,いい世の中?になったもんだな,と思いました.いろんな本も読みました.その中で一番印象に残っているのは,「科学者になる人のために」という本で,バドミントン部の合宿中に検見川の2段ベッド(^^;で読んだのですが,科学の素晴らしさ,その「真理の探究」という本質についてとうとうと書いてありました.でも「真理の探究」ということにどうしても興味を持てず,自分は科学者には向いていない,科学者にはなれない,と確信して愕然としたものです.

 進振りがあるので,勉強しないといけないのですが,どこに進学したいという目標がないので,モチベーションがどうしても上がりません.それに競争相手はみな東大生,しかも半分は現役で入ってきた連中なので,めちゃめちゃシビアです(^^;.そうこうするうちに〆切がどんどん迫ってきます.進学希望先を決めたのは,提出当日の朝だったと思います.ずっといろんな資料を調べていたのですが(当時はインターネットなんていう便利なものは当然ありません),東京大学工学部なんとか(名前は忘れた(^^;)という黒い本を前日それこそ徹夜で見ていて,建築に構造という分野があることに気がつきます.そして,これだ!と思ったのを今でもよく憶えています.それまで何で気づかなかったのか,なんで直前ぎりぎりに気がついたかは,今でも謎です(^^;.

 古典力学そのものは,もう学問としては過去のものですが,工学系ではそれを使っていろんなものを作るわけです.私が電磁気よりも力学に興味をもったのは,現象が目に見えるからで,それを使って目に見える建築物が作られている,ということに感動し,これこそが私が追い求めていたものだと思いました.結果的に,入学の時点では漠然と理工系(理I)という選択をすればよく,3年に進学するときに具体的な学科を選択すればいいという東大のシステムに救われたことになります.進振りは賛否両論ありますが,高校までは大学に受かることで頭が一杯で(^^;,高校生に具体的な進路までは決めさせるのはなかなか厳しいような気もします.大学に入ればそれまでよりは格段に時間もありますし(進振りがある東大ですら),大学に入って2年くらいかけて具体的にやりたいことを探せるシステムもいいのではないか,と私は思っています.

 建築に構造という分野があることを見つけたときは,進振り希望提出の当日で,もう世が明けかけていました.お腹が空いたので,空が白み始めた中を,下宿(駒場のキャンパスのすぐ横に住んでいました)から山手通りを通って,コンビニ(三叉路のところにあるセブンイレブン)まで歩いていく中,なんとも言えない,幸せな気分でした(建築なので人気学科ですし,まだ,通るかどうかはわからないのですが(^^;).

 そして,無事建築学科に進学します.建築学科なので,ほぼ全員が建築家志望です.確か,最初の製図の授業で先生(広部先生だったかな)が,「この中でアーキテクトになりたい人,手を挙げて」と言われて,私と坂本(現,大成建設)以外全員手を挙げました(^^;.私は「アーキテクト」の意味すらわかりませんでした(^^;.私と坂本がその後,無二の親友?になったのは言うまでもありません(^^;.そして,とんでもないところに来てしまったかも,と思うと同時に「もろた!」とも思いました.なぜって,構造やりたい,なんて人は全然いないわけですから,競争相手もいないわけです(^^)v.ですが,製図はそれなりに楽しかったですが,周りはばりばりの建築家志望ばかりですから,結構大変だったです(^^;.小泉君(現,都立大,じゃなくて首都大学東京か(^^;)と等価?交換(製図の図面をもらう代わりに,構造の試験のとき私の席の隣りに座ってもらう(^^;)をしたりもしました.2年の後期,3年と製図は必修でした.3年の最後の課題を出した後,坂本と祝杯をあげました(^^).

 2年3年のときは,構造の授業はもちろんあったのですが,構造力学とかそういう感じだったので,まあそんなにおもしろいって感じでもなかったです(^^;.でもちゃんと勉強はしてました.建築学科時代の成績はほとんどAだったと思います.別に私が優秀なんじゃなくて,ほとんどの人は建築家志望なので授業などは出ずに製図室に籠もっていたからです.私もバドミントン部,ピアノの会と本業以外が忙しかったこともあり,構造系以外の授業にはほとんど出なかったと思います(卒業式の後のパーティーで建築学科の先生方の半分は顔と名前が一致しなかった(^^;).

 そして,いよいよ卒業論文の研究室配属になります.授業で一番興味をもったのは,秋山先生(現,日本大)の弾性論でした.まず,秋山先生のところに話をききに行ったと思います.秋山先生は当時,本郷キャンパスの工学部11号館にはおられなくて,浅野キャンパスの総合試験所に出向?されていました.秋山先生の話はとてもおもしろく,非常に興味をもったのですが,浅野キャンパスは本郷キャンパスから少し離れていてとても寂しく(^^;,人もあまりいない感じで,ここに来るのは嫌だなあ,と思ったのを憶えています.たまたまその時,秋山先生が総合試験所におられたというだけで秋山研に行かなかった(秋山先生が11号館におられたらおそらく秋山研に行ったと思います),というのはなんか不思議な感じがします.

 ちなみに秋山先生はピアノを弾かれるのでその後もいろいろ仲良く?させていただいて,一度銀座に連れていっていただいて,女性まで紹介していただきました(^^;.秋山先生のその業績は言うまでもなく,その研究者としての姿勢はほんとに素晴らしいというか,いやー,ほんとにすごい人だと思います.

 最終的に,私が希望したのは,青山・小谷研(今の久保・塩原研)でした.坂本もいっしょでした.青山先生が構造力学の講義をなさっていて,とてもわかりやすかった(青山先生を構造力学の授業という面で捉えるというのも的外れなこと甚だしいですね(^^;)というのもありますし,研究室が賑やかでとても楽しそうでした.小谷先生は,当時4年生の授業しかされていなかったのですが,その中の研究室紹介の,研究室に来る条件として「酒が飲める」「野球ができる」「勉強ができてもよい」というのもちょっと魅力的(^^;でした.

 そして,研究室のテーマを選ぶときになって,小谷先生の「卒業論文とは言ってもどれも世界最先端のテーマだからしっかりやるように」という言葉に体が震えるほど感動したのをはっきりと憶えています.そして,めちゃめちゃやる気になったのは言うまでもありません.4年生は大学院生に付くのですが,私が付いたのは当時M2の定本さん(現,竹中工務店)で,彼が困り果てて逃げまくるほど質問攻めにしました(^^;(定本さんどうもすみませんでしたm(_ _)m).研究という勉強とは全く違った,答えがまだない未知なるものを自分で探求していく,ということもとても新鮮でわくわくするものでした.また,質問してもちゃんと答えてくれなくて(答えられない?)いつも反抗ばかりしていた小中高までの多くの教師(もちろん,そうでない先生も沢山いらっしゃいました)と大学の先生のレベルのあまりの違いに驚き,やっと先生と呼べる人に巡り会えた!とも思いました(ちょっと問題発言ですが,本音なのでお許しくださいm(_ _)m.まあ,青山先生,小谷先生という世界の中でも建築構造界の第一人者が相手なんで仕方ないですよね(^^;).

 日本は地震国であり,建物はほとんど地震に耐えることによって設計されるので,建築構造の最先端のテーマは全て地震とか耐震ということに関することでした.具体的には,地震という不規則な揺れが建物に入力して,建物がどう挙動するかを古典力学に基づいてコンピュータを使って解析したりとか(実際に,運動方程式を解く),地震に耐えられる構造部材の挙動について研究する,といったもので,まさに,「古典力学を使って目で見える自然現象を捉え,形のあるものを作る」という私のイメージとぴったりでした.地震動の波形を初めて見たときも,その不思議な形に何とも言えない幾何学的なおもしろさのようなものも感じました.難しい数式があまり得意でなかった(^^;私にとって,理論化の難しい非線形挙動を復元力特性のモデル化によって解くといった,いかにも工学的な手法にも興味をもちました.

 卒論のテーマは「地震動の破壊力に関する研究」という非常に大きなものでした.その後,いろいろんなテーマに取り組んできましたが,現在またそういうテーマに別の角度から取り組んでいるのは不思議な感じがします.実は,大学卒業後は,大学の先生になると決めていたわけではなくて(そこまでは自信がなくて),国家公務員上級試験(今の国家I種ですかね)の受験申し込みもしていて,それなりに勉強もしていたのですが(何と,エール出版の「私の国家公務員上級試験合格体験記」?を大学1年の時から毎年買って読んでいた),研究室に入ってこれだ!とまた思って(全くおめでたい奴ですね(^^;),すぐに大学院進学を決めたと思います.それも修士の入試の時面接で「博士まで行きます!」と宣言してしまいました.

 卒論はとても幸運なことに当時,筑波大から地震研に戻られたばかりの南忠夫先生に直接指導していただくことになりました.別に定本さんがクビになったわけでなく(^^;,しばらくは2人で行っていて,定本さんは1968年十勝沖地震の八戸高専の被害を再現する,というのが修論のテーマだったため,八戸港湾の記録から八戸高専の地震動を伝達マトリクス法で再現する,というのを南先生のところに勉強しに行っていて,その再現波ができた後は,私1人で毎週地震研に行くことになりました.その辺のことはここに書いてあります.大学院時代のこともここに書いてありますので,省略します(^^;.幸福論?その1にも少し書いてあります.

 概要?だけ書くと,大学院時代はほんとによく勉強,そして研究したと思います.とにかく青山先生,小谷先生に認めてもらおうと必死でした.とても幸せな6年間でした.そして,無事大学に職を得ることもできました.研究室に入ってそこまではとても順調(私の人生の中で唯一順調と言えるのが大学院時代だと思います)だったのですが,その後,どうなったかは,断片的にはもうあちこちに書いていますし,「頑張る」にまとめて書いています.

 でも,こうして振り返ってみると,節目節目でほんと綱渡りみたいな感じで,随分紆余曲折?があったもんだなー(「やりたいこと探し」ってほんとに大変だなー),と思う反面,なんかなるようになってきたような気もします.やはり,「全ては150億年前に決まっている」としか思えませんね(^^;.

 ここまでは,「今の仕事を選んだわけ」というよりは,「今の仕事を選んだ経緯」という感じなので,今の仕事を選んだ「わけ」について,もう少し詳しく書いておこうと思います.今の仕事(大学の教員)を自分の仕事として選んだきっかけ(子供の頃)は,大学の教員をしていた父親が仕事をしていてとても楽しそうだった,ということですが,最終的に今の仕事を選んだ(研究者になろうと決意した)のは,大学4年のとき研究室に入って研究というものがどういうものかがおぼろげながらわかり,その中身が「力学を使って目で見える現象を捉え,形のあるものを作る」という自分がやりたいことだったからです.

 私にとって何より重要だったのは,仕事そのものに興味がもてるもの,ということです(まあ当たり前の話だと思いますが).人間,なんだかんだいっても起きている時間の大半を仕事をして過ごすわけですから,やっていて楽しいに越したことはありません.そして,私が重要視したのは,それに加えて仕事をすることによって仕事のレベル,熟練度が上がり,仕事を通して自分自身が成長できる,ということでした.要は,仕事を通して一生「修行」ができるような仕事を選んだ,ということです.

 また,大学の教員は時間が比較的自由になる,ということもありました.もちろん大学の教員はサラリーマンであり,2年前までは国立大学の教員は公務員ですらあったわけですから,昼間の勤務時間は働くのが当然です.しかし,それ以外の時間をどう過ごすかはほとんど本人の自由です.ですから,本人がその気になれば朝9時から夕方5時まで以外は全く仕事をしない,ということも可能です.しかし,最先端の研究をしていれば,そんなことでやって行けるわけがありません.従って,夜も休日も仕事をすることになりますが,それをどう配分するかは本人の自由ということです.

 私の場合は,仕事以外にもいろんなことをそれもかなりまじにやっているので,それはとても重要でした.例えば,バドミントンの練習がある日は自由に練習に行けますし(その代わり,練習が終わってまた仕事をしますが),その日に講義や学内外の会議がなければ誰に気兼ねすることもなく平日に休みをとってスキーに行くこともできます.もちろんそういう週は休日に仕事をすることになりますが,スキー場は平日が休日より格段に空いているので,そうした方が効率がいいのは言うまでもありません.でも問題は,平日だといっしょに行ける人がほとんどいない(T_T)ってことですね(^^;.研究室の学生にも成果を出しさえすれば,いつ仕事をするかは自由ということにしています.

 もちろん,研究は仕事の「時間」ではなく「質や量」が決まっているものなので,より高い「質や量」を目指すのであれば,勤務時間以外遊んでばかりいたら,自分で自分の首を絞めることになります.ですから,しっかりとしたマネージメントが必要です.普通はそういうマネージメントは会社や上司が行うのでしょうが,それを自分自身で行うことができる,ということです.まあ,これは実際にやってみると,人間やはり怠け者なので(特に私は(^^;),〆切前に大変辛い目に会うことになってしまい,こんなことなら普通の会社の方がよかった?(T_T),と思うこともないではないです.

 ちなみに大学の教員に残業代は全くつきません.もしついたらおそらく給料は倍くらいになるでしょう(^^;.ですから,勤務時間以外にいくら仕事をしようとそれは研究成果となって現れるだけで,給料という形では全く反映されません.これは研究者が非常に冷遇されている,といえないこともないですが,じゃあ,成果を給料というお金で評価すればいいのか,というとそうは思いません.この辺のことについては,研究者に対する評価に書いています.

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