幸福論?(仮)その2

 その1の続きです.今回は,「幸せは空間的,時間的に相対的なものである」という話です.相対的とは,単に相対的というだけではなく,厳密にはその「変化率」によります.まあこれも当たり前と言えば当たり前の話なのですが...当たり前と言えば,昨日,「世界一受けたい授業」で養老先生が「バカの壁」の講義をなさっていたので一応見ました(10分くらいなので).が,予想通りどれも当たり前の話ばかりでした(^^;.やはりベストセラーは読むに値しないということですね.もちろん,別に養老先生を批判しているのではなく,「バカの壁」という本が万人にわかりやすく書かれたものなので(読んでないので予想ですが(^^;)内容が浅いものになっている,というだけの話です(最初のパラグラフでいきなり矛盾?が生じましたが,雑記帳なのでとりあえずほっときます(^^;.).

 「幸せは空間的,時間的に相対的なものである」というよりは,幸せに限らず,世の中に絶対的なものはないということでしょう.これは,「自分が幸せと思ったら幸せ」という幸せの定義?とも関係があります.いくら幸福は人それぞれとは言え,同じ人間なのですから,価値観があまりにも違いすぎるというのも考えにくいことです.痛い,苦しい,凍えるほど寒い,空腹などは誰でも嫌でしょう.周りから見て不幸そうに見えるのに本人が幸せ,あるいは,周りから見て幸せそうに見えるのに本人が不幸だと言い張るとしたら,それは,幸不幸が相対的なものだからだと思います.

 つまり,自分が幸せだと思っている人は何か非常に不幸な状態を想像できていてそれと比較して相対的に幸せなのでしょう.例えば,もう今の日本社会では食べるのに困るということはまずありません.しかし当たり前と思っていることが当たり前でないのは言うまでもありません.実際,世界に目を向ければ毎日食べていくだけで大変というところはいくらでもあります.ですから,そういう不幸な状況を想像できれば,つまり,現在の日本の豊かな?状況のありがたみを実感できれば幸せになれる,ということになります.想像しなくても,テレビのニュースを見ていれば世界各地の不幸な状況はいくらでも目に飛び込んできます.別に日本国外でなくても不幸な事件,事故,状況はいくらでもあります.

 ですが,そういう他人の不幸な状況を見て幸せになれるでしょうか?そんなことで幸せになれるのなら誰でも(厳密には世界で一番不幸な人以外は全員)幸せになれますよね.その昔,朝のワイドショーは不幸な事件,事故のオンパレードで,他人の不幸を見て幸せを感じさせるのが狙いだったと思うのですが,そんなもんで幸せになれるはずもなく,最近はそういうものは少なくなってきました.そんなことで幸せになれない1つの理由は,空間的変化率の問題だと思います.つまり,空間的にあまりに離れていて変化率が小さいために変化が感じられないということです.まあ所詮は他人事ということですね.

 では,空間的に近ければ幸せになれるでしょうか?あまりに近ければ,例えば,身内とか友人では半ば自分のことになるのでもちろんだめですよね.そういう風に考えていくと,空間的距離が非常に限定されてきて,他人の不幸では幸せになれるケースは非常に少ないことがわかります.いやもしかしたら,身内,友人よりやや空間的に離れたところの不幸で幸せになれる人もいるかもしれません.例えば,仲が悪くてこいつさえいなければ,みたいな人間の不幸とか,ご近所のお受験の話とか...でも私自身は幸いそういう人は思い当たりませんし,やはり他人の不幸では幸せになることはできないような気がします.

 ただし,他人の不幸で自分が幸せになることはないですが,自分と同じ不幸な状況の他人がいることで自分の不幸の度合が小さくなることはありました.例えば,自分が受験に失敗したとき(ちなみに私は自慢じゃないですけど,小中高大と,どれ1つ取っても受験にまともに成功したことがありません(T_T).ほんと自慢じゃないですね(^^;.),自分と同じくらいの成績で同じく失敗した人がいたときは,自分だけじゃないんだ,とほんの少しほっとしたような記憶があります.その場合の他人は,やはり赤の他人でもなく,身内や友人でもない微妙な距離の人でしたね.最初は距離が遠くても,同じ不幸を共有することで,距離が近くなって不幸を減らせることもあるでしょう.ですが,それで自分が幸せになる,ということまではなさそうです.

 人類みな兄弟,という,口にするのもかなり恥ずかしい言葉(^^;もありますが,人間の遺伝子は,人類が繁栄するようにプログラムされているので,そういうところ(他人の不幸では幸せになれない)もあるのかもしれませんね.しかし,実際に他人が不幸でなくても,不幸な状況(他人)を「想像」して幸せになることはできるのかもしれません(できる人はできるのかもしれません).例えば,ご飯を食べるときに「神様,今日も無事ご飯が食べられることに感謝します.」と心の底から思えれば,無病息災を心底ありがたいと思えれば幸せになれます.それは,ご飯を食べられない状況や病気や事故に会ったときを想像して,それに比べれば相対的に幸せなので幸せになっているわけです.いかに今の状況が恵まれているか,ありがたみが感じられるか,ということです.

 これはできる人はできるでしょうし,そういう人は幸せになれる人だと思います.しかし,これもなかなか難しいです(少なくとも私には).おそらく想像力が足りないのでしょうが(^^;,一番大きな原因はやはり食べるに困った経験がないからだと思います.私には病気や事故の経験もありません.よく戦争体験者が若者に向かって,「食べるにも困らないでこんな豊かな暮らしをしていていったい何が不満なんだ,戦争中なんか食料もなくて食べるだけ大変だったんだ,贅沢言うんじゃない!」というようなことを言っている光景を目にしますが,そんなこと言われても若者がぴんと来ないのは経験がないのですから仕方のない話です.今のフリーターやニートの問題にしても「人間仕事しなければ食べて行けないものなんだ.だからとにかく仕事をしなさい」と言われても,実際,(そんなに)仕事をしなくても食べて行けるのですから説得力がありません.

 食べるに困る,病気や事故といった極端な場合でなくても,自分より不幸(に見える,あるいは,勝手にそう思いこむ)人と比べて自分が幸せだ,と思うのはとても難しいです.やはり他人の不幸は他人の不幸であって,自分の幸せと比較することはできない,ということでしょうか.つまり,「幸せは空間的,時間的に相対的なものである」が,「空間的に相対的なもの」であることを利用して幸せになることは難しそうです.次回は,もう1つのキーワード「時間的に相対的なもの」です.

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