これも昔書いた文章ですが,当時を振り返る意味で(何で振り返るかは幸福論参照?)載せておきます.

南先生との思い出
境有紀

 私が南先生に初めてお会いしたのは、私が大学4年生のときですから、もう15年以上前のことになります。卒論生として工学部建築学科の青山・小谷研究室(今の小谷・塩原研究室)にはいり、卒業論文を「地震動の破壊力に関する研究」というテーマで(今またこのテーマに違った角度から取り組んでいるのがちょっと不思議な感じがします)書くことになり、週に1回程度、工学部11号館の青山・小谷研究室から地震研の先生の部屋まで、伺わせていただくことになりました。最初は、私が当時面倒を見てもらっていた修士2年の定本照正さん(現竹中工務店)といっしょに彼の修論に必要な八戸高専の再現地震波作成のために2人で伺っていましたが、再現地震動ができた夏以降は、私1人で行くようになりました。それからは、それこそマンツーマンの個人授業状態で、南先生は「塑性率ってのはなあ...」などとおっしゃりながら、何も知らない、ばかな学生相手にそれこそ手取り足取り教えてくださいました。課題をもらっては1週間でそれをこなし、また新たな課題をもらうということを毎週繰り返し、とても充実した日々を過ごすことができました。

 「個人授業」のあとは、毎回当然のように「じゃあ1杯やるか。」となり、先生の部屋で1,2時間日本酒(当時は高清水でした)を飲んだ後、長田さんや大堀さんを誘って根津の方に繰り出す、というパターンでした。その時は、「境は、かかあはどんなのがいいんだ?」とか「境はカラオケはやるのか?俺はあんなのをやる奴の気が知れねえ!」(当時は先生はまだカラオケを全く嗜んでおられず、というか非常に毛嫌いされていて、5年後私が南研究室に助手として赴任させていただいたときには無類のカラオケ好きになられていたのは、目黒さん(現東大生研)達の献身的な努力の賜?です)といった取り留めのない?話が多かったように思います。私の方はと言えば、根津に行く前に先生の部屋で空きっ腹状態で日本酒を大分飲んでいるので、皆さんと別れてから随分不忍通りを「汚した」ものでした。でも今思えば自分にとって一番幸せな時期だったような気がします。

 私が卒業論文を書いて学部を卒業し、青山・小谷研究室で大学院に進学してから博士課程を修了するまでは、修論の副査になっていただいて説明に行ったり、年2回青山・小谷研究室で行われる閉室パーティー(南先生も青山・小谷研究室の前身の梅村・青山研究室の出身)で先生が来られて、話をしたりする程度でしたが、私がD3の博士論文の提出を1ヶ月後に控えた11月の下旬、まだ就職先が決まってなくて暗澹たる日々を過ごしていたとき、南先生から「境、お前まだ就職決まってねえんだってなー。ちょっと1杯やるか。」と電話がかかってきて、八重垣(残念ながら昨年(2001年)の夏なくなってしまいましたが)で、助手としてうちに来ないか、と言われ、本当に嬉しかったのを覚えています。私は、大学に職を得て、研究者として食べていくのが夢だったので、その日は私にとっても間違いなく人生最高の日となりました。あのような心の底から喜べるような日はもう来ないような気がします。本当に南先生には感謝しています。

 翌年(1991年)の4月から地震研の南研究室の助手として働かせていただくことになり、予想されたとおり?夜は学生の部屋で飲んでは高岡(根津のカラオケのあるスナック)に繰り出す、という日々が待っていました。私にとっても、地震研は同じ東大なのにそれまでいた工学部の青山・小谷研とは、雰囲気やいろんな面で全く異なり、地震研独特の「しきたり」に戸惑いつつも、南先生といっしょに仕事をさせていただきながら、何とか研究者としての職にありつけたことの喜びを噛みしめるような日々を送らせていただいていました。

 しかし、その次の年(1992年)の夏前頃、突然「虎ノ門病院の者ですが、悪性の細胞が見つかったので連絡いただくようにお伝え願えますか?」という電話が先生の部屋にかかってきます。最初は、何が起こったのかわからず、しばし茫然としてしまい、悪性の細胞って癌だよなー、とか、そのまま伝えていいものかどうか、でも先生の部屋に直接かかってきたんだから、本人に伝えるつもりだったんだろうなー、などと考えたりもし、意を決して、伝えると先生はただ「わかった。」とだけお答えになりました。そして夏に手術をされることになりました。

 1度目の手術はうまく行き、「手術して切り出したら癌細胞が小さすぎて見つからねえんだよなー。癌じゃねえと保険が下りねえからこれじゃあ困るんだよなー。」などとおっしゃっていました。それから3年ほどは再発することもなく、お酒も飲まれ、カラオケもリハビリと称して?精力的にこなされていました。さすがに煙草は完全に止められましたが、「煙草を止めるって約束しねえと医者が手術しねえって言うんだもんなー。」とは、いかにも南先生らしいセリフですね。

 しかし、私がバークレーにいた1995年の夏前頃、南先生の肺癌が再発してしまったというFAXが工藤先生からはいります。1995年はご存じのように1月に兵庫県南部地震が起こり、南先生が慕われていた梅村先生が亡くなり、また5月にはサハリンで地震が起こって南先生が無理をされて調査に行かれたときいていたので、お体の心配をしていた矢先のことでした。非常にショックだったのですが、翌年(1996年)帰国したときは思った以上にお元気な様子だったので少し安心したのを覚えています。

 しかし、それ以降は度々入院されるような日々を過ごされることになりました。そして、亡くなられた年(1999年)の春頃にはボンベを手放せなくなってしまわれました。それでも先生は亡くなる直前まで辛そうな顔は全く見せられず、本当にすごい人だと思いました。それだけに亡くなられたときは、突然のように逝ってしまわれ、私の方はといえば、覚悟はしていたつもりでも全く覚悟ができていないのに愕然とさせられ、南先生が亡くなられたショックは計り知れないものでした。

 南先生は、お酒を飲むといろんな話をされましたが、やはり一番多い、というか私の記憶に多く残っているのは、いわゆる「人の道」に関することです。学生が「人の道」をはずれるような自分勝手な行動をとったときなどは、怒りを露わにされて叱りとばすようなことも多々ありましたが、これらは学生に対する愛情、あるいはちゃんとした人間として社会送り出す責任感のようなものに基づかれていたことは言うまでもありません。

 また先生ならではの、半ば逆説的とも取れ、また半ば本質をついている?ような、例えば、「こいつは仕事ができる、って思われたらそいつの人生は終わりだね。」といった、ユニークな発言も数多く私の記憶に残っています。

 また、南先生はよく梅村先生の話をされました。「俺は梅村先生に受けた恩は小谷に返す。」とよくおっしゃっていました。梅村先生は私も何度もいっしょにお酒を飲ませていただいたことがありますが、本当に心の温かい、いわゆる親分肌の先生で、南先生はそのような気質を引き継がれた数少ない先生の1人だと思います。しかし南先生が亡くなってしまわれ、もうそういう時代は終わってしまったのかなあ、という感もします。私個人としても「親分」を突然のように失ってしまい、これからは1人で頑張って行かなくてはいけないなー、と思う半面、もうそういう時代なんだろうなあ、とも思います。

 南先生は、晩年は病気に苦しんでおられたと思うのですが、そういう姿は周りには全く見せられず、それでも人生を楽しんでおられたように思います。それは逆境に打ち勝つという感じではなく、その中で楽しむ、というように見えました。南先生といっしょにお酒を飲んで話していると、よく感じたのは、物事が見えているというか、達観されているようなところがあって、それがそのような一種の精神的強さに結びついていたのでは、と思います。  南先生、どうか安らかにお休みください。私も先生のように、逆境の中でも人生を楽しむことができるように、これから生きていきたいと思っています。

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